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明楽寺の歴史

はじめに

・正式名称は『菩提心院 宝樹山 明楽寺』からとりました。
・寺伝の紹介と、所蔵の文化財(什物)から辿る歴史を紹介します。

 1 寺伝から見る歴史(「明楽寺の概要」から)

最初は真言宗寺院で、建久2年(1191)に山城国安井村(現在の京都市右京区太秦安井)に建立された。初代は道尊大僧正(以仁王の子息)といいます。

混乱の京都を避けて、真教(敬)大僧正は、明徳2年(1391)に木之本に菩提心院を移しました。

文明3年(1471)5月に、蓮如が北陸から京都へ登られる途中、明楽寺へ立寄り、藤田又ヱ衛門尉信盛(「又左衛門尉」の誤りか、西信)らに本堂北側の石に腰掛け説教を行いました。また、松を植え(枯死して現存しない)、聖徳太子の木像、自筆の「六字名号」を与えました。→文明3年は、蓮如が吉崎へ向かった年。吉崎退去は文明5年(1473)。

この藤田又ヱ衛門尉信盛(西信)は武士だったので、浅井長政に仕え、また教如上人から親鸞聖人像を下賜されました。石山合戦には、上坂順慶寺や唐川長照寺とともに、顕如上人に勤仕したという伝承もあります。

寛永元年(1624)10月15日に、寺号を明楽寺と改称し、正式に浄土真宗寺院となりました。真言宗時代には、京都の公家・広幡大納言家の菩提寺でした。また、興教(文化8年(1811)に住職就任)の時代に、広幡大納言家から盛姫が嫁いでいます。

本堂は天和3年(1683)10月7日に焼失、正徳元年(1711)に再建、明和3年(1766)11月20日に再度焼失、現在の本堂は安永年間(1772~1781)の建物です。

 →「年々萬日記」によれば、元文4年(1739)に土蔵1棟と鐘を残して全焼。寛保4年(1744)にも全焼。この時も土蔵1棟と鐘楼は残ってます。

 2 文化財(什物)の紹介

①六字名号 蓮如書 2幅 文字=「南無阿弥陀仏」

②親鸞聖人像    1幅 天正9年(1581)

裏書=「大谷本願寺親鸞聖人御影/本願寺釈教如(花押)/天正九辛巳年五月十二日書/江州伊香郡中庄木本/真敬坊常住物也/願主 釈西信」

③顕如上人像    1幅 慶長10年(1605)

裏書=「顕如上人真影/本願寺釈教如(花押)/慶長十乙巳年三月十一日/江州[  ]

郡[  ]/[  ]常住物也/願主 釈□□」

④顕如上人書状   1面 木箱墨書=「顕如上人御筆/討死御書 三通」

顕如上人書状・下間証念書状・書状断簡の3通からなるが、火災による損傷甚だし。

「討死」・「一味同心」・「玉薬」などの文字が見えるので石山合戦関係と推測されます。

⑤伝大士像・迦葉(かしょう)尊者像・阿難尊者像 3躯

伝大士(ふだいし、497~569)は、中国南北朝時代の在俗仏教者。輪蔵を考案したそうです。迦葉尊者と阿難尊者は、釈迦十大弟子。

⑥広幡豊忠像    1躯 

寺伝(「菩提心院系譜」)では、盛姫が嫁入りした時に、広幡家から明楽寺に寄附されたものといわれています。広幡家は正親町天皇の孫・八条宮智仁親王(桂宮初代)の第三王子・忠幸王を家祖とする公家。寛文3年(1663)11月に、忠幸が源姓を賜って臣下に下り、広幡を名乗りました。豊忠は忠幸の後継(義子)です。同家は江戸時代に内大臣・武家伝奏を務めたそうです。本来は衣冠束帯像だったが、最近衣装が傷んだので衣に着せ替えました。冠のみは本来のものです。

3 建造物の建築年代(「明楽寺明細記」から)

庫裏 安永年間(1772~1781) 本堂と同じ時に建立、山門・太鼓楼 文化4年(1807)、座敷 文政2年(1819)、鐘楼 天保8年(1837)、経蔵 明治32年(1899)頃←天井絵「天女奏楽図」から推定されます。

※ 明楽寺の歴史の文のなかで「 」や○○ がありますが、文末に空白もしくは読み取れない箇所です 。